2008年6月15日、中村さんの父親の淳貴(きよたか)さん(54)は、自宅のある大阪府豊中市役所で記者会見した。「皆さんに大変なご迷惑とご心配をかけ申し訳ありませんでした。ほっとしました」と話した。時折笑みを浮かべて、安心した様子を見せた。
☆ あの地域で拘束されると、悲惨な結末も高い確率で予想されただけに、解放の報に胸をなで下ろされていることと思う。人命が救われたことに、素直に喜びをわかちあいたい。
以下、ニュース記事の中味である。
淳貴さんによると、14日午後11時半ごろ、突然自宅に「聡志です。どうも解放されたような気がする」と電話があった。「元気か」と尋ねると、聡志さんは「心身ともに元気。申し訳ない」と話したという。これまでも度々電話がかかることがあったため、半信半疑だったが「いつもより明るい声だ」と思った。
15日午前2時ごろには外務省に解放を確認。家族で無事を喜び合った。聡志さんの妹は泣いていたという。
この間、淳貴さんは、情報が流れるたびにイランの地図を広げ、時には衛星写真が見られるインターネットのサイトを見ては「何か映っていないだろうか」と安否を気づかい、「とにかく生きていてほしい」と願う日々だった。
☆ あの地域で拘束されると、悲惨な結末も高い確率で予想されただけに、解放の報に胸をなで下ろされていることと思う。人命が救われたことに、素直に喜びをわかちあいたい。
以下、ニュース記事の中味である。
淳貴さんによると、14日午後11時半ごろ、突然自宅に「聡志です。どうも解放されたような気がする」と電話があった。「元気か」と尋ねると、聡志さんは「心身ともに元気。申し訳ない」と話したという。これまでも度々電話がかかることがあったため、半信半疑だったが「いつもより明るい声だ」と思った。
15日午前2時ごろには外務省に解放を確認。家族で無事を喜び合った。聡志さんの妹は泣いていたという。
この間、淳貴さんは、情報が流れるたびにイランの地図を広げ、時には衛星写真が見られるインターネットのサイトを見ては「何か映っていないだろうか」と安否を気づかい、「とにかく生きていてほしい」と願う日々だった。
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解放された背景には、イランとパキスタンの協力があったのではないかとする観測記事(毎日新聞 2008年6月16日)が載っていた。主要ポイントを転載しておく。複雑な国家間、部族間、勢力間の駆け引きの中、よくぞ無傷で帰国できたものだ。家族、関係者の方々の喜びはひとしおだろう。アジアから中近東にかけての地域に平和が訪れることを願ってやまない。
今年3月、解放交渉はいったん合意に達したが、密輸団が要求をエスカレートさせたため決裂、さらに長期化の様相を見せていた。国境警察幹部によると、イラン政府がパキスタン政府に捜査協力を要請。急転直下で解決に向かったとみられる。
少数民族バルチ人の密輸団「シャハバフシュ」は当初、中村さんの解放と引き換えに収監中の仲間3人の釈放を要求した。だが、イスラム革命(79年)以降、「麻薬との戦い」による死者は密輸団、イラン当局双方で3000人以上にのぼる。釈放要求リストには当局者を殺害した人物も入っており、当局は事件の再発防止と、現地治安当局の感情にも配慮し、拒否し続けた。
そんな中、密輸団は昨年11月、南東部シスタン・バルチスタン州内の潜伏先で治安部隊の包囲に気づき、パキスタンのバルチスタン州に逃げ込んだ。
イランとパキスタンは長く「冷たい関係」が続いてきた。イランは反米のシーア派国家だが、パキスタンは親米でスンニ派が主体。パキスタンが支援していたアフガニスタンの旧タリバン政権を、イランは敵視していた。タリバン政権崩壊後も両国の不信感は根強い。
パキスタンのバルチスタン州もイラン側のバルチスタンと同様、「辺境」に位置する最貧困地帯で、パキスタン中央政府への不満がくすぶる。また、イランがパキスタンに捜査協力を求めることは「貸し」を作ることにもなり、連携は当初から期待薄とみられ、密輸団に「安全地帯」を提供する格好となった。
だが、イラン当局は今年3月、密輸団の要求を基本的に受け入れる「苦渋の決断」(テヘラン外交筋)をし、中村さん解放で合意した。ところが翌4月、密輸団はイラン人の聖職者を新たに誘拐して、解放条件を死刑囚を含む仲間5人の釈放と引き上げたため、イラン政府は態度を硬化。パキスタン政府への協力要請に踏み切ったようだ。
イランのアフマディネジャド大統領は4月下旬、パキスタンなど南アジアを初めて歴訪。イランからパキスタンを経由しインドに至る天然ガスのパイプライン敷設計画の推進で基本合意しており、両国は信頼醸成の一環として事件解決に取り組んだ可能性もある。パキスタン当局は13日、収監していたイランの反体制派武装組織「神の戦士」幹部の身柄を引き渡している。

